カテゴリー別アーカイブ: ヒラリーに会いたい

第7回 積み散らかしたキャリアと経験が、いつかひとつにつながる プランナー&エディター 高橋 健さん(3)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)

ブラック、パワハラ、詐欺まがい…。経歴にどんどん傷が付く

独立の失敗、フリーの限界…。半年後に、再び、就職活動を始めた高橋さんは、新聞広告で見つけた中堅の出版社に何とか入社した。
高橋:洒落た男性誌で有名な会社だったのですが、実際に入ってみると、どうも経営がおかしい。雑誌の知名度を利用して、読者に怪しい投資話をもちかけているみたいなんですよね。もちろん、社員には隠していましたが、何となく雰囲気で分かるし、ネットに悪口も書かれてました。雑誌をつくること自体が犯罪の片棒をかつぐような気がしたので、1年もたたずに辞めました。結局、数年後には、その会社は大きな負債を抱えて倒産しました。
――苦難が続きますね。それで、次はどうしたんですか?
高橋:そのあとはいわゆるスピリチュアル系の出版社に入りました。まあインドに長いこといたくらいなので、自身にもそういう素養があったわけですが、ここも残念ながら問題がある会社で、やはり長いこと在籍せずに退社。次は興味もそこそこにあった医療・介護系の出版社に入りましたが、今度は社長のパワハラで社員が半年で半分入れ替わるような劣悪な会社…。もっとも、出してる本や雑誌はすごくよかったし、医者や介護士の方たちに話を聞くのは勉強になって、地域医療、病院、地方の高齢化問題など、これまで見えなかったものがはっきり見え、社会に対する見方が大きく変わり、人間的に成長できたと思いました。仕事には未練たっぷりでしたが、思い切ってやめました。すでに7社目。経歴はもうボロボロです(笑)。

全てのキャリアが結びつく時

もっとも、高橋さんの経歴は本人が言うほど悪くはなかった。会社が変わる度に、新しいノウハウや知識を身につけていたからだ。編集、写真、印刷…。そこに医療、介護の知識が加わっていた。人材紹介会社に依頼すると、すぐにナナ・コーポレート・コミュニケーションズを紹介された。
――実際に面接を受けてどうでしたか?
高橋:まず、きちんとした会社だと当たり前のことに感動しました(笑)。そして、ここなら、自分のキャリアを活かせると思いました。社内報の制作は、クライアント企業さんごとにやり方が違うし、担当者は異動などによって定期的に変わります。ですから、どんなやり方のクライアント企業さんとも、新しい担当者とも、あたかも数年来チームを組んできたようにスムーズに仕事を進められる能力が問われますが、それに関しては、海外放浪と会社遍歴で十分に養われた(笑)。引け目に感じてた経歴が、プラスに感じられるようになりました。もちろん、会社遍歴をする中で、編集だけではなく、写真撮影、原稿執筆も自分でできるようになっていました。しかも、仕事の目的は、クライアント企業の組織を良くすること。実体験から、組織のあり方、企業の社会的責任、社内のモラルなど「組織」に対してじっくり勉強してみたいと思っていたところでした。どこから切り取っても、まさに、自分のためにあるような仕事だと思いました。
――実際に仕事を始めるといかがでしたか?
高橋:何よりも気持ちがよかったのは、仕事でお会いする方が、みな、本気で自分の会社を少しでもよくしようという熱意に溢れていたことですね。たとえば合併を体験した会社では「社内に一体感をもたせるためには、どうすればよいのか」、技術系の会社なら、「新技術をどんどん発明するような環境をつくるためにはどうすればよいのか」といったことを真剣に考えている。だから、僕も、少しでも、この人たちのために役立ちたいと一生懸命になる。読者もはっきりしてますから、反応もダイレクトに伝わってきます。
――社内報と一般誌のやりがいの違いはどこですか?
高橋:クライアント企業のために役立てたという実感をはっきりと得られることですね。「社内のコミュニケーションがよくなった」「理念が社内に浸透した」「制度の利用者が増えた」といった声をきくと、本当に社内報制作にかかわってよかったと思います。それは、雑誌や書籍を発行して、何万部売れたからいくら儲かったというのとは全く違う喜びです。この会社に来て、まだ2年ですが、やっと自分の居場所がみつかったという感じですね。
――ありがとうございました。業界に旋風を巻き起こすような社内報が誕生することを期待しています。

編集者になりたい人へ

■高橋健さんからワンポイントアドバイス
オーソドックスなやり方は、いうまでもなく出版社に入ることですが、出版社は狭き門にもほどがありますよね。でも、紙媒体にこだわらなければ、実は、webでも、広告でも、営業でも編集的な仕事って、世の中には沢山あります。重要なのは、編集の本質を理解すること。それが分かって自分を磨けば、紙媒体の編集もできるんですよね。とくに広報誌の担当者を見ているとそれを確信できます。編集の経験など全くなくても、他部門で一流の仕事をしてきた方は、ちょっと編集の勉強をしただけで、プロの編集者顔負けの編集能力を発揮しますからね。
■高橋さんにとって仕事とは?
「自分にとってのミッション。あるがままに生きていれば、自分という個性にあった仕事が自然に表れると考えています。ですから、目の前の仕事を一生懸命になる。そうするうちに、また、次のミッションが現れてくる。そんな風にやってるうちに、現在の仕事にたどりついた。仕事を面白くするコツは、面白いと思うこと(笑)。たとえば、ミャンマーの小さな村が面白いから、是非、行ってみろと言われた時に、「それは面白そうだ」と思えたら、その瞬間に勝ったも同然。行かねばならぬと義務的に考えれば、つまらなくなります。でも、北極で毛布一枚で一晩過ごせというような絶対的に辛いことは、無理しないで逃げていいと思います」
(おわり)

今日のヒラリー
引き続きパキスタン問題に取り組んでいます。午後はパキスタンのクレーシー外相とミーティングをし、夕方は国連で演説。すでに拠出を決めた70億円に加えて、さらに50億円の追加融資を表明しました。う~~ん。スゴイ!ちなみに、日本は12億円の支援…。そして、次なるビッグな仕事は、イスラエルとパレスチナの直接交渉再開の発表!どんな感動的な表現で発表するのか楽しみですね。

第6回 積み散らかしたキャリアと経験が、いつかひとつにつながる プランナー&エディター 高橋 健さん(2)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)

海外放浪でコミュニケーションと情報収集能力を磨く

1997年10月。会社を退職した高橋さんが向かった先はバックパッカーの拠点、タイのバンコクだった。そこから3年間の世界放浪が始まった。
――どうしてバンコクが拠点なんですか?
高橋:物価が安いし、航空会社も豊富で、どこに行くのも便利なんですよ。バンコクからインドネシア、ニューギニア、ブルネイ、マレーシアなどを回ったら、いったんバンコクに戻る。今度は、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムを回って再びバンコクに戻るといった具合に、常にバンコクに戻るわけです。今はちょっと違うみたいですけど、当時はバックパッカーだらけでした。
――旅行によって、どんな点が変わりましたか?
高橋:コミュニケーションの基本姿勢が変わりました。ベタな表現ですけど人間の幅が広がったような気がしますね。
――具体的には?
高橋:たとえば、日本…に限らずどこでもそうなんですが、会社とか学校とか、エリアの限られた人たちとのコミュニケーションが、まあ中心ですよね。また、日本は治安がいいし、病院も沢山あるし、価格だって店によって極端に違うなんてことはない。その上、それぞれの人には家族がいるわけですから、僕が、友人知人の安全や健康の心配をする必要はない。極端に言えば、自分のことだけを考えていればいいわけですよ。ところが、海外放浪となれば、そうはいきません。ものすごいぼったくりの店もあるし、危険地帯も沢山あります。病気になっても家族はいないし、近代的な病院だって少ない。みんな一人ぼっち。そうなると、バックパッカー同士で助け合うしかないわけですよ。
――なるほど。
高橋:ですから、出会った人とは積極的にコミュニケーションを図って最新情報を伝え合ったり、お互いに相手の安全まで気遣うようになりますね。日本から離れれば離れるほどにね。毎日毎日、初対面との人との新しいコミュニケーション。最初はしんどい面もありましたが、慣れてくると、それぞれの人が持っている情報が違うし、考え方も多様で面白い。気が付くと、どんどん積極的にコミュニケーションを図るようになったし、英語もできるようになったので、他国のパッカーともいつの間にか普通に交流してました。アンテナが変わったせいか、人に対する気遣いの形も変わりました。
――途中、一度だけ、日本に戻ったそうですが…。
高橋:「よく考えてみれば、オレたち日本を知らないよね」って、現地で知り合った仲間3人と日本に戻りました。あらかじめネパールやタイで銀などのアクセサリーを大量に仕入れ、8万円で軽自動車を買って、2ヶ月間かけて東京から鹿児島までアクセサリーを売り歩きながら旅をしました。大もうけはできませんでしたが、旅行代は何とか捻出できましたね。終わったら再び旅を続けました。アジア、中近東、オセアニアを回って、最終的にはアフリカの途中で中断。ヨーロッパ、アメリカ、南米には渡らず、世界半周で旅行をやめました。
――それは、どうしてですか?
高橋:エジプトに入った頃に、だんだん旅行のモチベーションが下がっていったんです。この先も楽しいことはあるだろうけど、どのくらい楽しいかがだいたい予想できるようになってしまった。それで、トルコからメキシコに行く予定を180度変えて、というかUターンしてチベットに向かいました。本当に最高で、そこで満足しちゃいました。「お腹いっぱい」の感覚っていうんでしょうか。その後はタイの島やネパールでちょっとのんびりして、99年のクリスマス前後に日本に帰りました。

海外ボケとキャリアの再構築

帰国した時は、すでに28歳になっていた。日本はあいかわらずの不景気のまっただ中。高橋さんは、どのように編集の世界に戻ってきたのだろうか。
――帰国後の就職活動は、どのように?
高橋:まずハローワークに行きました。そこで、某メガネチェーン店の職にありついたんですが…。スーツを着て、定時出勤。3年も海外で好き勝手にやっている人間には、とても無理。結局、3日でやめちゃいました。やっぱり編集関係がいいと思いましたが、そう簡単には決まらない。結局1ヶ月くらいブラブラしてたのかな?
――それで?
高橋:何とか編集プロダクションにもぐりこむことができました。そこは、販促物や単行本をつくっている会社で、実際に企画やページ構成を考えたり、ライターさんやデザイナーさんに細かく指示したり…。以前いた出版社は編集プロダクションに丸投げだったので、実作業はまるで経験がありませんでした。「なるほど。編集ってこういう仕事なんだ!」って、ここに来てはじめて分かりました。
――なるほど。高橋さんの編集ノウハウは。その会社で学んだわけですね。
高橋:そうですね。そういう意味で、この会社に入ったのは、本当によかったと思います。ところが、まもなく給料は遅配。8ヶ月後には潰れてしまいました。
――次は、どうされたんですか?
高橋:熱帯魚やペットなど趣味的な雑誌を出版している会社に入りました。
――そこでは、何を学びましたか?
高橋:意外なことに写真です。入社すると、熱帯魚の雑誌の担当になったんですが、こういう雑誌って、文章よりも何よりも写真が大事なんですね。通常は、カメラマンさんにお願いするはずなのですが…。なぜか僕がすごいカメラを渡された。「お前、撮れ」と。それまでカメラなんて、まともに触ったこともなかったから、さっぱり分からない。毎日、カメラを構えて水槽の前に座りっぱなしですよ(笑)。露出とか、ストロボの使い方とか、結果として、写真についてみっちり勉強することができました。だんだん写真が上手になって面白かったのですが…。ここも結局、不渡りを出して8ヶ月で潰れました。僕みたいな中途半端な人間を採用するところだから、仕方ないですよね。分かってますが、もう、どこでもいいやと半ばやけっぱちの気分になっていました。
――確かに、2社連続はへこみますね。
高橋:ですから、次は、たまたまで募集記事を見つけた漫画の出版社に入りました。嫁舅問題などが中心のレディースコミックをつくっている会社でした。漫画の世界って、99%は漫画家さんがつくりますから、編集者の出る幕はあまりない。漫画の方向性や多少のストーリーは考えますが、メインの仕事は誤字脱字のチェック…。多分、編集者として学べるものはほとんどないだろうなと思っていました。
――実際には?
高橋:印刷について学べました。すでに世の中はパソコンを使ったDTP印刷に変わっていましたが、DTPって、ある意味ブラックボックス。いくら眺めていても、印刷のことはよく分からない。でも、漫画に限っていえば昔ながらの版下、写植の世界なので、実に分かりやすい。漫画にかかわったおかげで知りたかった印刷の基礎がよく分かりました。でも、一番よかったのは、社員の人たちがいい人ばかりだったことかな。今でも、この時の仲間とは花見などで定期的に集まってますよ。
――そんなに楽しそうな会社だったのに、どうして退職したんですか?
高橋:実は、最初に就職した編プロ時代の仲間と、田舎に特化したフリーペーパーを発行して独立しようと考えたからです。広告代理店もついて、みんなで事務所まで借りました。ところが、いよいよスタートという時に広告代理店が倒産してしまいました。
独立の夢は、見事うち砕かれ、行き場を失った高橋さんは、フリーカメラマン&フリーライターとして再出発した。海外で磨いたコミュニケーション力で、食いっぱぐれることはなかったが、収入は月5万円~50万円と非常に不安定。再び、就職活動を始めた。(つづく)

今日のヒラリー
洪水被害に見舞われているパキスタン。すでに米国はヘリコプターでの救助など他国に先駆けて活動していますが、それに加えてヒラリーは14日の夜にパキスタンのザルダリ大統領に電話。最大限の協力を約束したそうです。国連・潘基文事務総長の視察の前日というのが、しぶいタイミングだなぁ。

第5回 積み散らかしたキャリアと経験が、いつかひとつにつながる プランナー&エディター 高橋 健さん(1) 

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)

井上さんとの出会いと社内報制作の仕事

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高橋 健(たかはし けん)
1972年埼玉県生まれ。1995年成城学園大学文芸部芸術学科卒業。同年、中堅出版社に入社し、1997年に世界半周旅行に旅立ち約40カ国放浪。 2000年に帰国し、その後、ペット、漫画、ビジネス、医療など様々な専門出版社を経て2008年ナナ・コーポレートコミュニケーションに入社。

人がつなげるシゴト図鑑「ヒラリーに会いたい」。前回登場したグラフィックデザイナー・井上祥邦さんが紹介して下さったのは、株式会社ナナ・コーポレート・コミュニケーション 社内報事業部 プランナー&エディターの高橋 健さんだ。
――井上さんとの繋がりを伺う前に、まず高橋さんのお仕事からお伺いしたいと思います。そもそも社内報の特徴は、どんなところにあるんですか?
高橋:一般誌との一番の違いは、読者は「社員」と限定されていることですね。だからメッセージの目標が非常にはっきりしている。制作について言えば、編集方針を決めるのはクライアント企業の広報や総務の方で、編集の専門家ではないということです。時には媒体の制作にかかわるのは初めてという方もいらっしゃいます。
――そうなると仕事の進め方も一般誌とは違ってくるわけですね。
高橋:そうですね。社内報を制作する場合は、「社内のコミュニケーションを活発化したい」「こんな時期だからトップダウンで社員を引き締めるメッセージを伝えたい」「新しいCIを浸透させたい」といった具体的な目標を伺い、そのためにはどんなテーマで特集を組めばいいのか、どういう記事をつくればいいのか、またカラーページはどう使えば効果的なのかといったことを提案したり、トータルにアドバイスをすることが大きな仕事になるわけです。あわせて、取材に同行したり、記事を作成したり、写真を撮ったりと実際の制作作業も行います。この点は一般紙と同じですね。
――井上さんとのつながりは?
高橋:きっかけは、これまでお願いしていたデザイナーさんが一巡して、デザインの傾向が少しマンネリ化していたことです。ちょっと雰囲気を変えるために新しいデザイナーさんを探していた時に、たまたま私と井上さんの共通の知人が紹介してくれました。
――新しいデザイナーさんに仕事を発注するかどうかのポイントはどんなところにあるんですか?
高橋:まずは作品を見せてもらって、自分が作ろうとしているものと雰囲気があっているかを見ます。あとは本人の柔軟性ですね。先ほど申したように、編集長は企業の広報や総務の方なので、時には、出版業界の「常識」とは違う要望が出てくることもあります。そうした時に、クライアントさんの気持ちや要望をくみ取り、ニーズにあったものをよりよいカタチで出してくれる柔軟性が非常に大切です。アーティスティックに自分のやりたいことを主張するデザイナーさんは難しい。また、クライアントさんは主として大企業なので、それなりのビジネスマナーも必要です。そうした点で、井上さんは、クライアントさんとコミュニケーションをきちんと図り、何がやりたいのか理解しようとしてくれるので、クライアントさんにも、社内でも評判は上々。以来、ずっとお願いしています。

マスコミ業界への第一歩と世界放浪

高橋さんが大学を卒業したのはバブル崩壊後の就職氷河期。激しい競争率をくぐりぬけ中堅出版社に入社したにもかかわらず、2年半で退社。その後27歳までの約3年間、放浪の旅に出て世界約40カ国を回った。
――学生時代から旅行に興味があったんですか?
高橋:大学時代は一ヶ月くらいの旅行に3回行きました。当時はバブル期だから日給1万円は当たり前。2万円くらいもらえることもあったので、旅行代はすぐに稼げました。で、海外旅行をしていると、いろんな人に出会うじゃないですか。世界一周したとかアジアでこんな体験したとか…。そういう話を聞くうちに、メラメラと対抗意識が芽生えた(笑)。「オレにまだ見ぬ世界があるのは許せない」ってね!
――それでは、最初から海外放浪は視野に入れて就職を?
高橋:そうですね。目標は二つありました。ひとつは旅行資金300万円を貯めること。もうひとつは仕事を覚えておくこと。就職経験がないと、さすがに日本に戻ってきた時に再就職は厳しいかなと。
――300万円って、どういう計算なんですか?
高橋:贅沢する時には贅沢する、という余裕の旅行がしたかったからです。もちろん、貧乏旅行にすれば150万円あれば可能ですが、物価が高い先進国に入った時にはあまり楽しくない。単に沢山の国を回るというスタンプコレクターみたいな旅行は、大学時代にさんざんやりましたから、今度は、お金を気にせずその国ならではの魅力はきちんと楽しむ有意義な旅行がしたいと思ってました。
――それで出版社に入ったと?
高橋:そうですね。昔から本を読むのは好きだったし、読書感想文で表彰されるようなタイプでした。学科も文芸学部芸術学科を選んだし、なんとなく文化的なことが好きだったんです。まあ、今、思えば出版社の仕事なんて何も分かっていませんでしたが(笑)。
――実際の仕事はいかがでしたか?
高橋:僕が入社したのはビジネス書から趣味の本まで総合的につくっている出版社でした。学生時代は編集者の仕事とライターの仕事との区別もよくついていませんでしたが、何となくバリバリ企画をたてたり、いろんな人と侃々諤々の議論をしたりするイメージはありました。ところが、実際にはそんな余裕はない。僕は単行本の編集を担当していたのですが、月に一人5冊つくるというノルマが課せられていました。そんなに沢山の本を一人で作れるわけはありませんよね。
――で、どうするんですか?
高橋:世の中には、雑誌や書籍の制作だけを専門に請け負う編集プロダクションが沢山あります。
――うちみたいな会社ですね(笑)。
高橋:そういうところに丸投げするわけです。企画についても新入社員が考える企画なんてほとんど通りませんから、先輩達が考えた企画を編集プロダクションに渡すだけ。僕の役割は、表紙のデザインについてデザイナーさんと打ち合わせることくらいです。ゲラ(校正用に刷った原稿)のチェックも編集プロダクションにお任せなんてこともありました。
――本当に丸投げなんですね!?
高橋:その代わりボーナスは新入社員でも100万円近くもらえましたが、だんだん、ここにいても仕事は覚えられないなと考えるようになってきました。それに2年半働いたら貯金が200万円ちょっと溜まったので、目標額には足りないけど、「行っちゃえ!」と会社を辞めてしまいました。
就職氷河期まっただ中で、高橋さんはキャリアも中途半端なまま会社を辞め、世界放浪へ。そこで何を学び、どうやって再び、編集の道に戻ってきたのだろうか。 (つづく)
株式会社ナナ・コーポレートコミュニケーション
1997年に設立された社内報専門会社のパイオニア的企業。同社が主催してい全国社内誌企画コンペティションへの入賞は、社内報担当者のひとつの目標。創業者は、オピニオン的社内報と高い評価を得ているリクルートの社内報『かもめ』を創刊し、23年間編集長を務めた福西七重氏。現在は、『月刊総務』、書籍の発行も手がけている。

今日のヒラリー
旧ソ連・東欧諸国の旅の途中。本日は、紛争が続いているアゼルバイジャンと隣国のアルメニアを訪れた。そこで、一言。「平和に対する最終的なステップは、しばしば、最も難しい。でも、私たちは平和は可能だと信じてます」…。信じてるっていう言い方が、何だかカッコイイ。

第4回「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(3)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(1)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(2)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(3)

人生を変えた素敵な出会い

仕事を辞めた井上さんは、デジタルハリウッドの短期コース『イメージビジュアルコース』に通い始めた。講義があるのは2週間に1回だったので、体力が落ちていても何とか通えたという。
井上:実は最後の会社で働いていた時に、アルバイトで来ていたデジタルハリウッドの学生達が、やたらとその先生の話をしていたんですよ。それで、自分もその先生の講義をちょっと受けてみたいなと漠然と思っていました。
――講義の内容は?
井上:発想方法などを習うコースでした。通ってみると、結構、精神論的な話も多く、その中ですごくいい言葉にも出会いました。
――それは?
井上:『自分を否定しない。他人と比べない。完全を求めない』。それまでの自分は全て逆のことをやっていました。大学時代ダラダラと過ごして時間を無駄にしていたので、社会人になったら、その分を何とか取り戻したいという焦りもありましたしね。あげくの果てに体を壊して働けなくなった。でも、その言葉を聞いて、マイペースというか、『オレはオレだ』みたいなある種開き直りっていうか、スッと心が軽くなりました。それもあったのかな? 3ヶ月くらい休養したらすっかり元に戻りました
就職活動を再開して、グラビア誌中心の出版社にもぐりこんだ。
井上:これまでは、単行本など書籍が中心で、文字組みがメインでした。でも、独立するなら、雑誌やグラビアもできなければ話にならないと思ったわけです。
――グラビアは、書籍とは随分違いますが…。
井上:表現の原点ではないかと思います。文字がほとんどないんですから、あれこそバランス感覚が求められます。本当のバランス感覚は、そこで学んだと思います。
――またトレースを?
井上:いえ。最初は、そのレベルではありませんでした。1枚の写真を眺めていても、その写真の良さを引き出すために、文字を上に置けばいいのか、それとも下に置けばいいのかさっぱり分からない。そんな状態でした。再び0からのスタートでしたね。
――それでは、どんな技術取得のワザを?
井上:ひたすらメモ。たとえばアダルト系だと、なぜくずした文字が多いのか、おどろおどろしく見せるのか? 文字の美しさはどうやれば際だつのか。少ないパーツをどうすれば効果的に見せられるのか? 疑問点や効果的に見せるための要素などをひたすらメモしました。トレースは、それからです。きれいだとか、かっこいいと思ったグラビアを見つけると、そのデザインをひたすらトレース。さらにラフを書くこともあります。そうしながら、『右側のこの文字が全体をひきたてているのか』といった具合に、美しいバランスの要因を分析していくんですよ。
――デザインは、論理的なんですね。
井上:論理的に考えれば、たとえば、お客さんや上司が要求しているデザインよりも、もっとこうした方がいいと思った時に、『欧文を使った方が引き締まる』とか、『写真を1枚増やせば企画の流れが分かりやすくなる』とか、『罫線や文字が入るとバランスがよくなる』と新しい提案の理由を説明できます。自分らしいデザインとは、そうやってつくっていくものだとも思います。
この会社で3年働き、グラビアや雑誌の技術を身につけ、昨年、独立を果たした。
――最初の仕事は何でしたか?
井上:それがですね、実に運命的なんですねぇ。
――もったいぶらないで教えて下さいよ!
井上:一番最初にターニングポイントになった仕事(第3回参照)の某出版社さんに、独立の挨拶に伺ったんですよ。そしたら、担当だった編集の方から『お前に会わせたい人がいる』って。それが、なんと、以前、泣かせちゃった編集者さん。思わず、『本当ですか!? あれ以来、会ってないんですよ!』と大声出しちゃいました。
――それで、それで?
井上:『実は、井上くんにお願いしたい仕事があるんだ』って、独立第一号の仕事をいただきました。本当にドラマチックな再会でした。
――それはいい話ですね! そして、次は、悪夢のようなスケジュールの仕事をウチがお願いしたと(笑)。
井上:本当に、あれはひどいですよ(笑)。何回冷や汗かいたことか…。
――次回は、絶対に、余裕をもったスケジュールにしますから。本日は、ありがとうございました。
■デザイナーになりたい人へ
井上祥邦さんからワンポイントアドバイス

デザイン事務所に入れなくても可能性は十分にあります。秘訣は欲張らないことですね。自分の場合は、アルバイト→営業→DTPオペレーターとデザイナーへの段階を意識して動いてきました。さらにデザイナーになってからは、単行本やグラビア誌や雑誌と仕事の範囲を広げていきました。方向を確かめ、一歩一歩着実に身につけていく。途中でいい出会いも沢山あるし、必ず道は開けます。
■井上さんにとって仕事とは?
「私にとって仕事とは、恩返しです。とくに私の現在の仕事は、これまで関わってきた人から依頼を受けているのがほとんどです。転々とした会社員時代に苦楽を共にした方々が、また私に仕事を依頼してくれるというのはうれしい話です。だから与えられた仕事は、感謝の気持ちを込めてベストを尽くすように心がけています。
あとは「一流の意識が一流を育む」という言葉を仕事の支えにしています。これはデジタルハリウッドの先生からいただいた言葉なんです。
“一流とは他人に認めてもらって初めて一流である。だから自分で言っちゃダメだけど、意識することで一流の振る舞いをするようになる”じつに味わい深いですよね。
ipod tocthの裏にも彫って、毎日仕事をする前に眺めています。
(おわり)

今日のヒラリー
本日は終日ワシントン。午後一番に、深刻な財政危機に見舞われているギリシャのパパンドレウ首相と国務省で会談。その後は、アフリカのガボン共和国のボンゴ大統領とイランの核開発問題などについて話し合った。

第3回「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(2)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(1)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(2)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(3)

出来のヒドさに編集者が泣いた!?

井上さんはDTPオペレーターの技術を身につけたので、次の会社はすぐにみつかった。デザインとDTPを手がける制作会社だ。
井上:最初は手書きのデザインをデータに起こしたり、すでにデザイナーがつくったデザイン・データに文字を流し込んだり、修正したりする作業をしてました。膨大なデザインを見ているうちに、自我に目覚めてしまったんですね。『自分もデザインがやりたい!』って。
――そうはいっても、DTPオペレーターからデザイナーに転向できた方って、実際には少ないですよね。学校に行かれたのですか?
井上:行きたかったんですけど、とにかくお金がなかった(笑)。デザインの本などを買って自分で勉強しました。本を見て、ひたすら真似をして同じデザインをつくってみる。その繰り返しでしたね。
――その会社で、デザインはさせてもらえたのですか?
井上:はい。そこの会社は初歩的なデザインの仕事は沢山あったので、そうした仕事をちょこちょこさせて頂くようになり、少しずつデザインの仕事を覚えていきました。思い出深いのは、某出版社のタレント本を担当したときのことです。出来があまりに悪くて、作品を見た編集担当者の方を泣かせてしまいました。
――え~!? それでどうされたんですか?
井上:制作会社ごと変えたいと言われましたが、『そこを何とか! 最後までやらしてください!』と。もう必死にお願いしました。そうしたら、『もう一度だけなら』と最後はチャンスをいただけました。
――ダメなデザイン、いいデザインって、どこが違うんですか?
井上:基本的にグラフィック・デザインって、コミュニケーションの手段なんですよ。たとえば文字は縦組と横組があって、縦組なら基本的には読みやすいように右上から左下に流れるようにデザインする。つまり本来は、導線や要素のバランスなど考えた上での設計が必要です。ところが、当時の自分は「伝える」という意識が低く、感覚的にデザインしていた。そこを指摘されたわけです。
――修正後の作品はどうでした?
井上:なんとか合格点。打ち上げにも呼んでいただき、いろいろ話もしました。その時、『デザイナーなら、独立することも考えてもっとがんばれ』と言われました。デザイナー扱いされたのは、すごくうれしかったですね。また、この日を境に『独立』を視野に仕事をするようになりました。ですからこの仕事は、いろいろな意味で自分にとっての大きなターニングポイントになったわけです。

なぞり千本! ビシビシしごく鬼社長

その後、井上さんは企画力で有名な編集プロダクションに転職する。本格的にデザインの腕を磨くためだ。
井上:実は、面接の時に一悶着あった。というのは、履歴書を見ながら、社長が自分の大学をバカにしたんですよ。それで、『自分のことをバカにするのはいいけど、大学のことはバカにするな!』って言い返した。それが逆に評価されて採用されました。そういう熱い社長なんですが、仕事はものすごいスパルタだった。
――たとえば?
井上:入社したら、いきなりいろんなデザインのトレースを片っ端からさせるんですよ。なぜ、ここに罫線があるのか、なぜ、文字はこの大きさなのか…。『トレースしながらバランス感覚を体にたたきこめ! とにかく手を動かして覚えろ!』って。3ヶ月くらいは、本来の仕事が終わってから数時間トレースをしてました。毎日トレースをやらされました。今になると、すごく役だったことが分かりますが、その時は『パソコンでデザインする時代に、なんて前近代的なんだ』と思っていました。
――本格的に仕事を任されるようになったのは?
井上:入社して半年過ぎた頃からですね。ところが、いくらデザインしても『ダメ!』『全然駄目!』『何やってんだ!』と怒鳴られる。20代後半で他人に怒鳴られることってないじゃないですか。精神的にもキツかったし、仕事の量的にもキツかった。
――どのくらいの量をこなしていたんですか?
井上:平均1ヶ月に3冊ペース。デザインをしながらDTPオペレーションもこなしていました。最終的には、数字も意識するようになった。利益率が見えるから目標達成するためには数をこなさないといけない。完全に自分のキャパを越えてました。
――それで、どうなったんですか?
井上:体を壊して、会社を辞めざるをえなくなりました。その時は、本当に『オレはだめなんだ』と思いましたよ。28歳か29歳の時かな? もうすべてを諦め、実家に戻ろうと思ったのですが…。父上に電話をすると『もどってくんな!』と怒られた。
仕事も失い、健康も失い、実家にも戻れなくなった。せっかくデザイナーへの道を歩みだしたのに、再び、井上さんはどん底に落ち込んでしまった。(つづく)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(3)

今日のヒラリー
5日間で5カ国を回る大忙しの中南米訪問の旅の真っ最中だ。昨日は、震災のチリを訪問して救援を確約してきた。そして、今日は、ブラジルで、イランの核開発問題などを話し合うそうだ。帰国予定は3月5日。