第6回 積み散らかしたキャリアと経験が、いつかひとつにつながる プランナー&エディター 高橋 健さん(2)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)

海外放浪でコミュニケーションと情報収集能力を磨く

1997年10月。会社を退職した高橋さんが向かった先はバックパッカーの拠点、タイのバンコクだった。そこから3年間の世界放浪が始まった。
――どうしてバンコクが拠点なんですか?
高橋:物価が安いし、航空会社も豊富で、どこに行くのも便利なんですよ。バンコクからインドネシア、ニューギニア、ブルネイ、マレーシアなどを回ったら、いったんバンコクに戻る。今度は、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムを回って再びバンコクに戻るといった具合に、常にバンコクに戻るわけです。今はちょっと違うみたいですけど、当時はバックパッカーだらけでした。
――旅行によって、どんな点が変わりましたか?
高橋:コミュニケーションの基本姿勢が変わりました。ベタな表現ですけど人間の幅が広がったような気がしますね。
――具体的には?
高橋:たとえば、日本…に限らずどこでもそうなんですが、会社とか学校とか、エリアの限られた人たちとのコミュニケーションが、まあ中心ですよね。また、日本は治安がいいし、病院も沢山あるし、価格だって店によって極端に違うなんてことはない。その上、それぞれの人には家族がいるわけですから、僕が、友人知人の安全や健康の心配をする必要はない。極端に言えば、自分のことだけを考えていればいいわけですよ。ところが、海外放浪となれば、そうはいきません。ものすごいぼったくりの店もあるし、危険地帯も沢山あります。病気になっても家族はいないし、近代的な病院だって少ない。みんな一人ぼっち。そうなると、バックパッカー同士で助け合うしかないわけですよ。
――なるほど。
高橋:ですから、出会った人とは積極的にコミュニケーションを図って最新情報を伝え合ったり、お互いに相手の安全まで気遣うようになりますね。日本から離れれば離れるほどにね。毎日毎日、初対面との人との新しいコミュニケーション。最初はしんどい面もありましたが、慣れてくると、それぞれの人が持っている情報が違うし、考え方も多様で面白い。気が付くと、どんどん積極的にコミュニケーションを図るようになったし、英語もできるようになったので、他国のパッカーともいつの間にか普通に交流してました。アンテナが変わったせいか、人に対する気遣いの形も変わりました。
――途中、一度だけ、日本に戻ったそうですが…。
高橋:「よく考えてみれば、オレたち日本を知らないよね」って、現地で知り合った仲間3人と日本に戻りました。あらかじめネパールやタイで銀などのアクセサリーを大量に仕入れ、8万円で軽自動車を買って、2ヶ月間かけて東京から鹿児島までアクセサリーを売り歩きながら旅をしました。大もうけはできませんでしたが、旅行代は何とか捻出できましたね。終わったら再び旅を続けました。アジア、中近東、オセアニアを回って、最終的にはアフリカの途中で中断。ヨーロッパ、アメリカ、南米には渡らず、世界半周で旅行をやめました。
――それは、どうしてですか?
高橋:エジプトに入った頃に、だんだん旅行のモチベーションが下がっていったんです。この先も楽しいことはあるだろうけど、どのくらい楽しいかがだいたい予想できるようになってしまった。それで、トルコからメキシコに行く予定を180度変えて、というかUターンしてチベットに向かいました。本当に最高で、そこで満足しちゃいました。「お腹いっぱい」の感覚っていうんでしょうか。その後はタイの島やネパールでちょっとのんびりして、99年のクリスマス前後に日本に帰りました。

海外ボケとキャリアの再構築

帰国した時は、すでに28歳になっていた。日本はあいかわらずの不景気のまっただ中。高橋さんは、どのように編集の世界に戻ってきたのだろうか。
――帰国後の就職活動は、どのように?
高橋:まずハローワークに行きました。そこで、某メガネチェーン店の職にありついたんですが…。スーツを着て、定時出勤。3年も海外で好き勝手にやっている人間には、とても無理。結局、3日でやめちゃいました。やっぱり編集関係がいいと思いましたが、そう簡単には決まらない。結局1ヶ月くらいブラブラしてたのかな?
――それで?
高橋:何とか編集プロダクションにもぐりこむことができました。そこは、販促物や単行本をつくっている会社で、実際に企画やページ構成を考えたり、ライターさんやデザイナーさんに細かく指示したり…。以前いた出版社は編集プロダクションに丸投げだったので、実作業はまるで経験がありませんでした。「なるほど。編集ってこういう仕事なんだ!」って、ここに来てはじめて分かりました。
――なるほど。高橋さんの編集ノウハウは。その会社で学んだわけですね。
高橋:そうですね。そういう意味で、この会社に入ったのは、本当によかったと思います。ところが、まもなく給料は遅配。8ヶ月後には潰れてしまいました。
――次は、どうされたんですか?
高橋:熱帯魚やペットなど趣味的な雑誌を出版している会社に入りました。
――そこでは、何を学びましたか?
高橋:意外なことに写真です。入社すると、熱帯魚の雑誌の担当になったんですが、こういう雑誌って、文章よりも何よりも写真が大事なんですね。通常は、カメラマンさんにお願いするはずなのですが…。なぜか僕がすごいカメラを渡された。「お前、撮れ」と。それまでカメラなんて、まともに触ったこともなかったから、さっぱり分からない。毎日、カメラを構えて水槽の前に座りっぱなしですよ(笑)。露出とか、ストロボの使い方とか、結果として、写真についてみっちり勉強することができました。だんだん写真が上手になって面白かったのですが…。ここも結局、不渡りを出して8ヶ月で潰れました。僕みたいな中途半端な人間を採用するところだから、仕方ないですよね。分かってますが、もう、どこでもいいやと半ばやけっぱちの気分になっていました。
――確かに、2社連続はへこみますね。
高橋:ですから、次は、たまたまで募集記事を見つけた漫画の出版社に入りました。嫁舅問題などが中心のレディースコミックをつくっている会社でした。漫画の世界って、99%は漫画家さんがつくりますから、編集者の出る幕はあまりない。漫画の方向性や多少のストーリーは考えますが、メインの仕事は誤字脱字のチェック…。多分、編集者として学べるものはほとんどないだろうなと思っていました。
――実際には?
高橋:印刷について学べました。すでに世の中はパソコンを使ったDTP印刷に変わっていましたが、DTPって、ある意味ブラックボックス。いくら眺めていても、印刷のことはよく分からない。でも、漫画に限っていえば昔ながらの版下、写植の世界なので、実に分かりやすい。漫画にかかわったおかげで知りたかった印刷の基礎がよく分かりました。でも、一番よかったのは、社員の人たちがいい人ばかりだったことかな。今でも、この時の仲間とは花見などで定期的に集まってますよ。
――そんなに楽しそうな会社だったのに、どうして退職したんですか?
高橋:実は、最初に就職した編プロ時代の仲間と、田舎に特化したフリーペーパーを発行して独立しようと考えたからです。広告代理店もついて、みんなで事務所まで借りました。ところが、いよいよスタートという時に広告代理店が倒産してしまいました。
独立の夢は、見事うち砕かれ、行き場を失った高橋さんは、フリーカメラマン&フリーライターとして再出発した。海外で磨いたコミュニケーション力で、食いっぱぐれることはなかったが、収入は月5万円~50万円と非常に不安定。再び、就職活動を始めた。(つづく)

今日のヒラリー
洪水被害に見舞われているパキスタン。すでに米国はヘリコプターでの救助など他国に先駆けて活動していますが、それに加えてヒラリーは14日の夜にパキスタンのザルダリ大統領に電話。最大限の協力を約束したそうです。国連・潘基文事務総長の視察の前日というのが、しぶいタイミングだなぁ。

カテゴリー: ヒラリーに会いたい | 投稿日: | 投稿者:
takeuchi

takeuchi について

東京生まれ。西武百貨店勤務を経て株式会社カデナクリエイト設立。雑誌、社内報、単行本、webなど媒体問わず執筆。興味の中心は人事制度や社内教育だったが、最近は、インターンシップ、塾、学校など『教育』全般に広がっている。苦手は整理整頓。