第2回「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(1)

(竹内三保子/ニューワークタイムズ編集長・カデナクリエイト代表)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(1)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(2)
「なぞり千本!?」グラフィックデザイナー・井上祥邦さん(3)

グラフィックデザイナーって?

人がつなげるシゴト図鑑「ヒラリーに会いたい」、記念すべき第一歩として登場して頂くのは井上祥邦さん。一昨年に独立を果たしたグラフィックデザイナーだ。弊社とは3年くらいのつきあいで、昨年は『R35の給与格差白書』(笠倉出版社)という本を一緒につくった。
グラフィックデザイナーの仕事は、本や雑誌やポスターなどの誌面デザインをすること。デザイナーの腕次第で、写真が活き活きしたり、文章が読みやすくなったり、面白そうに感じたりする。ある意味、内容以上に影響を与える。
恥ずかしながら、分かっているのは、ここまでだ。
「このくらいの文章量で、図や写真は2点くらいにしたいなぁ~♪」
こんな風にお願いして、紙に簡単なイメージ図(ラフ)を書いて、原稿や図や写真などの素材を渡せば、自動的(に見える)に、ページの見本(レイアウト)がFAXやPDFで送られてくる。
基本的にメールとFAXのやりとりで仕事は進んでいくので、この間のデザイナーの仕事は、自分にとってはブラックボックス。もちろん、途中で何度か打ち合わせもするが、実作業を見ていないし、また、見たとしてもよく分からないだろうから、直接、井上さんに、どんな作業やどんな苦労があるのかを尋ねることにしたわけだ。

デザイナーへの第一歩は?

いきなり専門的な話を聞いても、アート系知識ゼロの自分には、きっとチンプンカンプン。まずは、デザイナーになったきっかけから伺おう。

井上祥邦(いのうえ よしくに)
グラフィックデザイナー。1976年生まれ。大学卒業後、印刷会社、DTP制作会社、編集企画会社、出版社などを経て2009年にyock designを設立。http://yockdesign.com

私:「やっぱり、デザイン系の学校を出られたんですよね?」
井:「実は、千葉の大学の情報学科出身なんですよ。SEになろうかなぁなんて思ってました。アハハ」
え~!? SEを目指していた人が、どうやってデザイナーになれたんだろう?
井:「一つのきっかけは、学生時代に印刷会社でアルバイトしたことです。そこで、DTPの仕事をやって欲しいと言われました」。
DTPとは、Desktop prepressの略で、ウィキペディアによれば「版下、製版フィルム、プレートなど印刷工程上の出力、もしくは印刷物を直接出力できる形にまですること」。要は、バラバラにあがってくる原稿や写真やイラストなどを、ポスターや雑誌などとして印刷できる状態にまですることだ。10数年前までは、大半のデザイナーは手書きでデザインしていたので、デザイナーとDTPオペレーターの役割は、かなりはっきりと分かれていたが、現在では、ほとんどのデザイナーがパソコンでデザインするようになり、DTPの作業までこなす人も増えてきた。
井:「macで作業をするのですが、当時はWindowsしか触ったことがなかった。できないことが悔しくて1から勉強をして、なんとか学校の卒業アルバムや文集などを作れるようになりました。完成した時の達成感は何ともいえず、こんな仕事で生きていきたいと考えるようになったわけです」
私:「なるほど! それで、デザイナーへと興味が広がっていったわけですね。まずは、印刷会社にきちんと就職して本格的にDTPの技術を?」
井:「そのつもりでしたが、営業に配属されてしまいました」
私:「営業ですか?」
井:「独立した今は、営業の大切さがよく分かるのですが、その時は、いやでいやでたまらず1年で辞めてしまいました」
当時はバブル崩壊直後の大不況下だ。そんな時に、正社員の立場を放棄?
私:「それでどうしたんですか?」
井:「でも、なんとかDTP専門の制作会社に潜り込めました。そこは、労働環境が劣悪なブラック会社。みんな、すぐに辞めるから、いつも人材募集してたんです」
私:「なるほど! ブラック会社も使いようですね。そこでみっちりと?」
井:「はい。ビシビシ教えてくれるいい先輩がたくさんいたんですが、環境が劣悪だから、みんな辞めちゃう。すっかり上の人がいなくなっちゃってなんかやばいなぁと…」
私:「どのくらいいたんですか?」
井:「9ヶ月…。当時の自分は、長続きしなくて本当にだめでした」
この状態から、どうやってデザイナーに?  <つづく>
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今日のヒラリー
昨日、ハワイで岡田外相との会談を終え、本日は気候変動や経済開発の話をするためにパプアニューギニアに旅立つはずだったが、ハイチの地震に対応するために、急遽予定は変更。ワシントンに戻ることになった。